横浜の夜は眠らない - Fm yokohama 84.7

滝ともはるの横浜の夜は眠らない2020年1月13日

今回のゲストは

Shing roadのメンバーでドラマーの丹菊正和さんでした。

滝ともはる、丹菊正和さん、米重優哉

年間200本以上のライブ活動の他に今度「ダウンタウンなう」にも出演するかも(バンドが映るかも?)と

ステージ前にはサポートするアーティストの復習予習が完璧な丹菊正和さんも参加して頂いた、

「横浜の夜は眠らない」番組名物「クイズ横浜」おさらいです。

番組をお聴きになった方、聴いてないよ。というみなさんも御一緒にお考え下さい

横浜にまつわるトリビュートをお伝えしますね。

答えはこのコラムの最後

(これであなたも横浜通!!! 学校や会社や飲み会の席で語ってください)

今回のテーマは生けるレジェンドロックボーカル矢沢永吉さんです

タワーレコードNO MUSIC NO LIFE 矢沢永吉

矢沢永吉さんは広島生まれです。

中学時代、ラジオから流れるザ・ビートルズを聴いてロックに目覚め、更にザ・ベンチャーズの広島公演を見て、

スターになることを夢見るようになったそうです。

クイズ横浜第1問

高校卒業と同時に、アルバイトで貯めた5万円を持って、広島から最終の夜行列車で上京します。

長時間の移動でお尻が痛くなったのと、ある理由で東京駅の前の横浜駅で降りてしまったそうです。

さてお尻が痛くなった以外の横浜を選んだ理由はなんだったでしょうか?

ヒント

矢沢さんはビートルズの大ファンでした

そして横浜で矢沢さんはバンドを作ります。

最初のバンドの名前は「ベース」

その後有名なのは「ヤマト」本牧の「ゴールデンカップ」や米軍キャンプで演奏をしました。

本牧のゴールデンカップ

矢沢さんは学生時代から作っていた「アイ・ラブ・ユーOK」という曲を

ビートルズのレコードを出していた東芝EMI(現EMIミュージック)に持ち込むのですが、

当時はフォークブーム全盛だったので断られてしまいました。

クイズ横浜第2問

しかし矢沢さんはぶれません。

矢沢さんの原点は幼いころに味わった「貧乏」

それを乗り越えるために彼の人生のモットーはとてもシンプルでした。

さて著書「成り上がり」にも書かれている当時の矢沢さんのモットーは何だったでしょうか?

ヒント

戦いの前提は負い目がないこと。

人に頼ってはダメだ!

 

1972年川崎の楽器屋さんの張り紙で応募してきたメンバーで「キャロル」を結成。

キャロル(Carol)

キャロルという名前はクリスマスキャロルからとったそうです。

ビートルズがハンブルグ時代、リーゼントで革ジャンだったことからキャロルのスタイルが決まりました。

Beatles

キャロルは横浜伊勢佐木町のディスコ・ピーナツで初演奏、矢沢さんが強引に売り込んだ

このビルの2階と3階にピーナッツがあった

フジテレビの「リブ・ヤング」に出演した時にミッキー・カーチスさんの目に留まりメジャーデビュー。

キャロル・ライブ・イン・リブ・ヤング

ロックは売れないと思われていた音楽界に大変革を起こしました。

 

ミッキー・カーチス

クイズ横浜第3問

その後キャロルはメンバー間のトラブルで解散し、矢沢さんはCBSソニー(現ソニーミュージック)に

移籍しソロ活動を開始します。

そして念願の高校生時代からの持ち歌「アイ・ラブユーOK」をリリースしますが、

ロックンロールのイメージの強かった矢沢さんのバラードはあまり評価されませんでした。

しかし矢沢さんはその後もバラードに挑戦、「時間よ止まれ」などのヒットにより

バラードシンガーとして大成するのです。

1999(平成11)年、バースデイライブで「アイ・ラブ・ユーOK」を歌いながら矢沢さんは涙ぐんでしまいました。

というのも「長くつらい道も/おまえだけを支えに歩いてきた」という歌詞のところで

頭が真っ白になり歌えなくなってしまったそうです。

さてこの歌詞の「おまえ」というのは矢沢さんにとって誰のことだったのでしょうか?

ヒント

若くして両親から離れ、一人で生きて来たからなのでしょうか?

第1問答え

横浜は「イギリスのリバプール(港町)みたいな町だから」

ビートルズはロンドンではなくリバプールの出身です。

矢沢さんは横浜がリバプールに見えて来たそうです。

リヴァプールの都市景観

第2問答え

「まずは自分でメシを食うこと」

自分の手でメシを食って、誇りを持つこと 

それが自分が理想を叶えるための絶対条件だからだと思う、とご自身の著書に書かれています。

第3問答え

「自分」

この涙について矢沢さんはこう言っています。

「あの歌詞は、いろんな捉え方ができると思うけど。僕は、あの時、自分自身を感じたのね。

僕、若い頃、非常にキザなことを言ったんですよ。鏡に向かって、自分の顔を見て

“オマエ、オレのいちばんの親友だよね”って。ここまで頑張ってきた自分についてきてくれたのは、

オマエだったねと。だから、あのライヴでは、そんなことも思い出したし。

“オジサン、よく頑張ってきたね”っていうのもあったかな」といって笑っていたそうです。

以上クイズ横浜おさらいでした。

さてみなさんは何問お解りでしたでしょうか?

丹菊正和さんの回は、radikoでお聴き頂けます♪
   ↓
http://radiko.jp/#!/ts/YFM/20190813013000

This program is brought to you by CERTE.
  
月曜の深夜は『横浜の夜は眠らない』をお聴き逃しなく♪

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