今年で創業70周年を迎える横浜・野毛のアイコン、ジャズ喫茶「ダウンビート」。
番組では、3代目店長の吉久修平さんをお迎えし、歴史あるこの場所に集う人々の物語を紐解きました。
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初代マスター・安保隼人さんが灯した火
初代マスターの安保隼人さんは、かつて両国で音楽喫茶を営んでいましたが、戦火の影響で閉店を余儀なくされ、自身も戦地へと赴きました。
終戦後、ベーシストとして横浜の米軍キャンプを渡り歩いた安保さんは、1956年に中区若葉町で「ダウンビート」をオープン。60年代半ば、現在の野毛の地で新たな歴史をスタートさせたのです。
そんな店に魅せられ、常連客から2代目マスターとなったのが田中幸平さん。
田中さんは、高校1年生で初めて足を踏み入れた当時の様子をこう振り返ります。
田中:最初にダウンビートに行ったのは、高校1年の時。悪友がいて、ダウンビートってところに行こう、と。その時はジャズっていうのも本当わかってなかったね。ダンスのためのジャズとはちょっと違う、モダンジャズというか、いわゆる「ダップ」だよ。最初に入ったときにびっくりして、気に入りましたね。その頃は、安保さんは1階のカウンターで、奥さんと2人で常連の方と話していて。1階がそういう常連と話すスペースで、2階はただひたすら聴くという。安保さんはそういったことをちゃんと意図してやっていましたね
ダウンビートの常連となった田中さん。
初代マスターが逝去された後、2代目への道を開いたのは安保さんの妻からの1本の電話でした。
田中:正直迷いましたよ、サラリーマンとしてそれなりにやっていましたから。でもね、当時東映フライヤーズにいた尊敬するピッチャー・久保田(雄高)さんが「人生には3回チャンスがある」と言っていたのを信じていたのよ。野球みたいに、3アウトでチェンジになるだけじゃないのよ。年齢的にもこれが最後のチャンスだな、と思ったわけ。
3代目・吉久修平さんへ受け継がれる「爆音の衝撃」
そして現在、店を守る3代目・吉久修平さんもまた、常連客からマスターへという同じ軌跡を辿りました。
吉久:初めて店を訪れたのは2004年だったかな、19歳か20歳の頃でした。友人がジャズ喫茶でバイトを始めたと聞いて、当時は「ジャズ喫茶」という言葉すら知らなかったのですが、コーヒーとか喫茶店自体は好きだったので行ってみようと思って。一人であの階段を上った時のことはよく覚えています。ドアの隙間から漏れ聞こえてくる爆音のジャズ。扉を開けた瞬間、漏れ聞こえていた音が一気に大きくなって、衝撃を受けました。
その衝撃を忘れられず、一般企業に勤めながらも、ジャズ喫茶に触れ続け、ついに野毛周辺へと引越しを決意。週3-4回ダウンビートへと通う常連となり、ある日田中さんからマスターを引き継ぐ打診を受けることとなりました。
吉久:以前から「誰も継がないなら……」なんて冗談めかして話していたんです。そうしたら、ある日の閉店後にお会計をしようとしたら、『吉さん、残ってくれ』と言われたんですよね。田中さんから『この店を、誰かに譲りたいと思っている』と真剣に切り出されました。
変わらないスタイル、現在進行形のジャズ
ジャズに浅くとも、一度足を踏み入れればその求心力の虜にしてしまうダウンビート。
吉久さんは、歴史ある店の看板を背負うマスターとしての抱負をこう語ります。
吉久:基本的に大きい音でジャズをかけ続けること。それはジャズ喫茶として提示したいスタイルだし、自分が格好いいと思うようなジャズをかけ続けることを意識していました。モダンジャズのエッセンスを引き継いだ、現行のリリースされているようなジャズを意識的にかけたりして、ジャズっていう音楽も現在進行形でかっこいい音楽であり続けてるんだろうっていうことをこのお店で表現したかったっていうのはありますね。本当に気に入ってくれる人というのは少ないんですけど、そういう人にとって、少しでも居心地のいい場所というか、一人でボケーっと来ても、ここだったら何しててもいいんだなと思ってくれるような場所であり続けたいと思っています。
戦前から三代のマスターによって、連綿と紡がれてきた「ダウンビート」の歴史。
本放送では、田中さんや吉久さんの言葉に加え、店を愛してやまない常連の方々にもその魅力を語っていただきました。
時代の移ろいに合わせ姿を変えながらも、そこにある「熱」だけは変わらない不変の場所。
様々な角度から「ダウンビート」の物語をお届けしました。
FMヨコハマアーカイブス

